今日もよい日

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ストレスのお薬としてのヨガ。お医者さんたちも、ヨガと瞑想に注目しています。

長岡禅塾へ(禅とマインドフルネスの対話)②

 

 

長岡禅塾の記事は2つに分かれています。

その①はこちらです。

 

 

禅の体験の後、休憩を挟んで、マインドフルネスの体験と解説です。

 

自己紹介タイムなどはなかったので、詳しくはわからないのですが、この講座はいろいろな立場の人が来ていたようです。

 

私はマインドフルネスを学ぶ側からの参加でしたが、禅を日常的になさっている方もいらっしゃいましたし(座り方がバシッとキマっている)、長岡禅塾の塾生さん(着ている物でわかります)や、大学の先生もいらっしゃいました。

 

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マインドフルネス

 

マインドフルネスの部は、静かに坐るところから始まりました。

 

短く感じましたので、20分くらいでしょうか。

 

坐っているときに接地しているところに意識を向けたり、呼吸を観察したり、自分の内側の想いや感情に意識を向けたり、次は外からの音に意識を向けたりと、いつもの感じです。

 

それが終わった後、さまざまな解説や比較検討がありました。

 

 

・まず根本であるマインドフルネスとは

特定のやりかたで注意を向けること。意図的に、今この瞬間に、価値判断にとらわれることなく。

 

・欧米でのマインドフルネス

仏教のダルマの本質を変えず、科学・医学・医療の大枠の中に再構成された非宗教的なプログラムである。

マインドフルネスの瞑想はヴィパッサナー瞑想に近く、うつ病の再発予防目的に行われている。

 

ヴィパッサナー瞑想について

ヴィパッサナー瞑想では現実をありのままに見る練習をする。

日常での私たちは、ありのままに見ているのではなく、思いや概念、記憶などのスクリーンを通してそれらを見てしまっていて、それを現実のものと見誤っている。

 

・禅の数息観とマインドフルネスの呼吸は別物なのか?

禅で数息観をしている時は、次第に息をしていることを忘れる。つまり、息が息をしていないと禅では考える。息になった息を自覚しなければ、本当の息はわからないという考え方。数を数えながら息をするのはただ心を呼吸に集中させるため。

マインドフルネスの呼吸は鼻腔の縁を吸う息と吐く息が出たり入ったりする感覚を感じ取る。

心を呼吸に集中させるという点では同じなのではないか。

 

・取り組むときの心構えみたいなもの

マインドフルネスは頑張り過ぎない。

禅は頑張る。

禅での修行増でも数日で悟る人もいれば、何十年経ってもダメな者もいる。何が違うかというと「なにくそ!負けないぞ!」という強い気持ち(勇猛の衆生)があるかないか。

 

・テラワーダ(上座部)仏教での瞑想と禅について

テラワーダ仏教では、先にサマタ瞑想(集中瞑想)から始めて、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)に移っていく。しかし、現代ではサマタ瞑想で無になるまでに時間がかかってしまうために、最初からヴィパッサナー瞑想を行う方法が広く行われている。マハージ・サヤドーとレーディ・サヤドーの方法は「戒(仏教で定められている戒律を守る)・定(精神を集中して心乱れないようにする)・慧(真理に目覚めること)」の「定」の部分が省略もしくは簡略化されている。

 

・サマーディー(三昧)は一時的?

マインドフルネスにおいてはサマーディーは一時的なものとされている。

禅では「行住坐臥これ禅」という言葉があるように、座っていても動いていても、立っていても横になっていても坐禅はできるという考えなので、サマーディーは一時的ではない。

 

・禅とマインドフルネスは似ている?

マインドフルネスは、自身を探求するための実践である。

禅の目標は「われにあるぼさつ」を「見」るところにある。禅によって救われたなら、その福音を他者にも分けてあげる。

※→ゴールが自分の中で終結するか(マインドフルネス)、他者に施すところまで行く(禅)、かの違い?

 

 

・『それはそれとして』

マインドフルネスのお師匠さんは『雑念が浮かんでもそれはそれとして、意識を戻す。』という言葉を瞑想中のガイドに使っています。

これ、鈴木大拙という禅の方がお使いになっていた言葉なのです。

それから『雑念や妄想自体は悪いものではなく、浮かんできても相手にしなければいい』という言葉をおっしゃるのですが、それも禅から来ているのだそうです。禅も実践しているお師匠さんだから出てくる言葉なのだなと思いました。

 

 

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質疑応答

 

マインドフルネスのお師匠さんの話が終わってから、質疑応答の時間になりました。

 

誰も手を挙げないので、マインドフルネスのお師匠さんから、老師に質問がありました。

 

Q.1日10~15分マインドフルに坐ることと、日常で坐禅をすることに違いはありますか?

A.違いはあると思う。『何を目指すのか』や『意味があるのか』を禅では考えない。ただ一生懸命にするだけ。

苦が自分を襲ってきたときの対処は難しく、苦は無明(底なし)である。

私が出家したのは、自分の苦悩がものすごく深いことに気付き、在家ではそれを解決することはできないから出家しました。

禅から見たら10~20分坐るというのはそういう意味でも中途半端。

でも、一日の生活を整理する方法としてはいいと思います。

 

 

参加者からの質問

 

Q.人助けすることについて。仏教では、困っている人がいたら助けた方がいいと考えるのか。(仏が民を救うという考え方から?)

A.別に助けなくてもいい。仏教に関わらず、人間には普遍的作用があります。助けたくない人は助けなくてもいい。ただ、助けたくない人は何かに覆われているのでしょう。

 

Q.瞑想中にくしゃみがしたくなる。マインドフルネスではそれも観察していくのだけど、禅では出そうになったくしゃみを止めた方がいいの?

A.自然にしたらいいです。

 

Q.「無」になるとは?

A.禅で言う無念無想というのは、『何も考えない、思わない』ではなくて、考えていることを三昧すること。考えているんだけどそこに没入できているということです。

 

Q.お葬式でお坊さんが謎の言葉(あなたが焼香しているとき、故人のことを思い出しているとしたら、そこにあなたはいない。)を残していった。老師なりの解釈を。

A.我々はそもそも「ない」のです。現象としては存在しているけど、仏教的には「ない」。あるなしは意識が作り出すことであり、生まれても死んでもいないのです。でもその言葉にどういう思いがあるかはわからないのでその人に聞いて下さい(笑)

 

Q.歩行禅に興味があります

歩くことに一生懸命になるのはいいです。禅では景色も見えないくらいに一生懸命に歩きますから、ものすごく速いスピードで歩き、そのうち走り出したりします。三昧できるのであればいいのです。

 

Q.ボランティアしてますと言ってしまうことは平常心(びょうじょうしん)ではないというお話がありましたが、マインドフルネスの気付き=自覚していく、ことは三昧(それと1つになる)につながるのでしょうか?

A.つながります。

 

Q.子どもの教育に禅の教えを取り入れてみたいのですが

A.何事にも一生懸命に取り組むのがいいと思います。特に身体を使ってするもの。掃除がいいでしょう。ここ(長岡禅塾)でも廊下をピカピカに磨き上げます。靴を揃えることでもいいです。日常の1つ1つを丁寧にすることが、気持ちを導いて行ってくれます。

 

 

時間を10分ほどオーバーしまして、この講座は終了しました。

 

 

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『禅とマインドフルネスの対話』という講座でしたが、対話まではいけなくて、自己紹介みたいな感じで『お互いを知る』ところで終わったかなと思います(笑)

 

でも、禅を体験してみたことが、私が実践している瞑想やヨガを見直すいい機会になりました。

 

 

私がなんとなく感じたのは「マインドフルネスなぞ禅に比べたら甘っちょろいぜ」と老師は思っているだろうな、ということ(^_^;)

 

マインドフルネスの資料に『マハージ・サヤドーとレーディ・サヤドーの方法は「戒(仏教で定められている戒律を守る)・定(精神を集中して心乱れないようにする)・慧(真理に目覚めること)」の「定」の部分が省略もしくは簡略化されている。』という部分がありました。

 

老師はその部分がとても気になったようで、「『定』が禅では一番大事なところですから。」とはっきりおっしゃっていました。

 

大事なところを省略しているということは、ゴールにたどり着くことはできないのかな。

 

 

そもそも、マインドフルネスの目指すところとと禅の目指すところが違うのかなと思います。

 

マインドフルネスは、自分を観察して、自分を知っていく(googleで研修でとして行われているマインドフルネスは、さらに欲張ったあれこれを求めます)。

 

禅は、自分がどこから来てどこに行くのかを知り(ヨガでいうところの『出自を知る』)、さらに無の体験をする。そして無になれた恩恵を他人にまで拡げていく。

 

目指すところの深さみたいなものが、全然違うという印象を受けました。

 

 

そして、智慧という言葉が禅のお話では出てきました。

 

智慧は無になったあとに出てくるものだと。

 

そして智慧は行為として表れるということを禅では言っています。

 

ヨガの哲学では先人たちの智慧聖典となってまとめられていて、それを学ぶことができます。

 

カルマヨガでは行為の結果に執着しません。

 

『ただ熱心にそれをする。』

 

ヨガと禅で共通しているところだなあと感じました。

 

 

 

マインドフルネスのお師匠さんが

「マインドフルネスを8週間すると、人と自分が一緒であり、自分を大事に思うように他人のことを大事に思えるようになります。」と最後におっしゃっていました。

 

「禅ほど厳しくはなくても、マインドフルネスでも三昧の境地にたどり着けますよ」ということなのかな。

 

ただ、瞑想の習慣がなかった人が、本やネットなどを参考にして1人で8週間、毎日、マインドフルネスの正式なプラクティスに取り組むことは困難なことだと思いますし、どこかで正式なプラクティスを教わる機会に恵まれても、その8週間だけで終わってしまう人がとても多いのです。

 

そんな現状から、毎日禅をしている人から見たら、マインドフルネスはやはり甘っちょろいのだろうな、と(^_^;)

 

 

でも、やらないよりはやった方がいいのです。

 

 

8週間のプラクティスの後、同じように取り組めなくなっても、全くやらなくなるよりは、1日5分でもいいから、何か一つ取り組むことが大事かなと思います。

 

毎日ちょっとずつやっていると、いつの間にか習慣になります。

 

習慣になると取り組める時間もだんだんと延びていって、まず自分自身に恩恵が得られます。

 

恩恵を感じることで、意志があれば、それを他者に広げていくこともできるでしょう。 

ここは禅の考えと同じだと思います。

 

 

これまで『瞑想に取り組んでみたものの、続かなかったなー』という方は、毎日のちょっとした習慣として、瞑想すること(呼吸瞑想がおすすめ)やヨガのポーズを味わうなどを取り入れていただきたいなあと思います。

 

いいことありますよ(^_^)

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