今日もよい日

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ストレスのお薬としてのヨガ。お医者さんたちも、ヨガと瞑想に注目しています。

長岡禅塾へ(禅とマインドフルネスの対話)①

 

 

10連休の最初の日、京都の長岡京市にある『長岡禅塾』へ行ってきました。

 

午前中の気温が11℃ほどで、風も強く、寒い日でした。

 

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長岡禅塾とは

 

昭和11年、岩井商店(現 双日)の社長によって、長岡天神に設立された禅塾。

禅を通じた人材育成および育英事業を目的としています。80年の歴史があり、300名近くの卒塾生を輩出しています。

入塾すると、臨済宗の禅の教えに沿った生活(公案、数息観、作務、行住坐臥など)をしながら学校に通います。

運営は企業や団体からの寄付金によって行われているため、寮費、食費などは一切徴収していません。

卒業後の進路の拘束もありません。入塾は基本的に1年間、大学生(大学院生)が対象です。

 

 

体験入塾もあるようですが、先にも書いたように、基本的には学生さん対象。

 

世俗から離れた暮らしにはとても興味があるのですが、すっかり大人になった私は入りたくても入れません(笑)

 

そんな長岡禅塾におじゃまさせていただく機会があり、行ってきました。

 

 

禅とマインドフルネスの対話

 

おじゃまできたきっかけは『禅とマインドフルネスの対話』という講座が開催されたからです。

 

長岡禅塾塾長の北野大雲老師と私のマインドフルネスのお師匠さんの指導によって、禅とマインドフルネスの違いを体験するという内容です。

 

マインドフルネスのお師匠さんが長岡禅塾に参禅しているというご縁で、この講座が開催されたそうで、案内をいただいてすぐに申し込みをしました。

 

 

講座の流れ

 

9:00~ お庭を自由に散策

 

10:00~ 禅体験および解説(北野大雲老師)

 

11:00~ マインドフルネスの体験および解説

 

12:00~ 禅とマインドフルネスの対話(質疑応答)

 

 

 

お庭の散策

 

どこを見ても手入れの行き届いた、素晴らしいお庭です。

 

広い敷地なのに、現在は塾生が10人もいなくて、お掃除やお手入れが大変なのだそうです。

 

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長岡京はたけのこの産地なのだそうです。

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ボタンのお庭が見事です。

 

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お世話している方に教えていただいたのですが、ボタンの花は開花から1週間ほどで花が終わってしまうそうで、気温が25℃を超える日があると、もうダメになってしまうのだそうです。

 

とても綺麗なボタンがたくさん咲いていると私は感じていたのでしたが、お話を聞くと、数日前に27℃の日があって、花がずいぶんダメになってしまい、もう終わりかけなのだそう。

 

でもボタンの後は入れ替わるようにシャクナゲが咲き始めるそうなので、まだまだお手入れは続くとのことでした。

 

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ボタンの写真を撮っていたら、この写真のまんなかに写っている作業している方が、シャガが綺麗なところに案内してくださいました。

 

 

 

ここを出て、

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 こんなところをズンズン歩きます。

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これがシャガの花です。

白っぽい紫色をしていて綺麗ですね(^_^)

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禅を体験しました

 

各自、お庭の散策が終わり、集合します。

 

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まず初めに禅の方から。

 

資料が配布され「禅とマインドフルネスの2つの違いを際立たせるようなレジュメをつくりました」と老師。

 

もともと大学の先生をなさっていて、在家の人として参禅していたのですが、中途半端であることに気付いて出家なさったのだそうです。

 

 

☆禅の第一段階

 

「見るものと見られるもの、聞くものと聞かれるもの、我と一切の融合、主客合一の純粋体験」のお話がありました。三昧=1つになるというお話。

 

これ、ヨガでも教わることなので、割とすんなりお話が入ってきます。

 

2つに分かれることで対立の構造が生まれたり葛藤が生じる。

 

『私』がなくなることが無我で、無我になることでそういった問題が解決するのだそうです。

 

無我に向かう修行として禅では、公案(三昧にならないと解けないようなお題)、数息観(すうそくかん)と呼ばれる坐禅と、作務(農作業や掃除など)、行住坐臥(生活のすべてが修行である)、などがあるそうですが、初心者の私たちにできるものとしては『数息観』があるとのことで、ご指導いただきました。

 

禅には「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉があって、静中が坐禅、動中が作務、行住坐臥に当たります。

 

ヨガのクラスで言うと静中は呼吸法や瞑想、作務はさまざまなポーズと動きに当たると思います。

 

作務は1つ1つの振る舞いを熱心に行いながら、動きながら考えるので、三昧(1つになること)に至りにくいそうです。

(※ 坐禅、作務どちらがいいとか悪いとかではなくてどちらも同じように励むのがよいそうです。)

 

禅は無を体得することを目指すのですが、そこがゴールではない、と老師もおっしゃいました。(死禅ではない)

 

宇宙的働きと一つになって、無になったという功徳を、他人に向けて回向するのが目指すところなのだとか。

 

そもそも無になるには毎日必死に禅の修行を行って、最低でも8年はかかるということでした(^_^;)

 

 

老師は数息観の指導を始める前に「たぶんみなさんだと2くらいまでしかできないと思います(笑)」と・・・。

 

 

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数息観の作法

①結跏趺坐(両足とも上げるあぐらの発展形の座り方)または半跏趺坐(片方の足だけのせたあぐら)、または正座で座る。どちらの足が上になってもいい(利き足があるので)。

 

②背筋を伸ばす(最も重要)。あごを軽く引く。眼は開いたまま視線が自然に落ちるところに落とす。手は法界定印(手指で楕円形を作るもの)ではなくてもよく、手のひらを下向きにした一方の手を他方の手で押さえ軽く握って、足の上の自然に置けるところに置く。(マインドフルネスのお師匠さんはいつも、左手で右手の4本指を握っています)

 

③大きく息を吐きながら『ひとーーーーーつ』と心の中で数を数える。同じやり方で『とう(10)』まで数えていく。途中で雑念(妄想)が入ったら、最初から数え直す。10まで行くことができたら、新たな気持ちでまた1に戻る(惰性でしない)。数に集中することで三昧(禅定)の心を養う。

 

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ずいぶん前に、真言宗のお寺で数息観(すそくかん)を習いました。

 

 臨済宗では同じ漢字でも『すうそくかん』と読むそうですが、今回やってみて、今までしてきたのは生ぬるかったんだなあと痛感しました(^_^;)

 

始まる前に老師がおっしゃったように、2とか3で雑念が浮かぶのです(^_^;)

 

雑念が浮かんだらまた1に戻りますから、いつまで経っても4にたどり着けないということを10分ほど繰り返し、終了。

 

普段している数息観はもっとゆるい感じだったので、いつだって10までいっていましたが、今回教えていただいた臨済宗のやり方は厳しいです(^_^;)

 

 

 

☆禅の第二段階(ここはさらっと終わってしまったのでメモも少ないです)

 

第一段階で無心を獲得できると、そこから智慧が出てくる。無分別の分別。これが第二段階。

 

智慧は行為と一つである。

智慧は慈悲と一つである。

 

釈迦三尊像の 文殊菩薩智慧)、釈迦如来(無心そのもの)、普賢菩薩(慈悲)

智慧と慈悲は仏の根本であり、この三尊像はそれを形象化しているものである。

 

 

平常心(びょうじょうしん)について

計らいのない心、そのままの心で、無心になって行うことを平常心(びょうじょうしん)と呼んでいる。

 

平常心(へいじょうしん)はもともと『びょうじょうしん』からきている。

 

なので、スポーツ選手が試合後に「平常心(へいじょうしん)で臨みました」という発言がよくあるけれど、言葉に表してしまうことは、もう平常心ではないということになる。

 

ボランティアもわざわざ「ボランティアに行ってきます」と言葉にしたら、『びょうじょうしん』からのものではなくなってしまう。

 

無心で、計らいなくただ行うのが大事。

 

この部分もヨガと通じていました(^_^)

 

 

ここで時間が来て、禅の解説と体験はおしまいです。

 

②のマインドフルネスに続きます・・・